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役所から
「お前ここ一年の税金払ってねーから家の中の財産とか給料とか差し押さえるね。
 いつおっぱじめるかはコッチの都合だから教えない。
 やめて欲しかったら現行の徴税と別に月4万、年計で45万くらい払え。
 というかソレ払ってる間も差し押さえはやっちゃうから」

という、心温まりすぎて紐なしバンジーを決行したくなるようなメッセージを頂きましたが
ぼくは元気・・・・・・というわけでもないです。
正直なところ、生きていくという事自体がほぼ詰んだと思っており、冗談でも自分酔いでもなんでもなく、
「さぁ近いうちどういう手段で自殺しようか」なんて事だけを考えて日々過ごしております。
こんな有様なのにその徴税を払うための新しい仕事を探していたりなど、自分でも真面目なんだか
主体がないんだかよく分からないこのごろ。

生活が凋落した原因はまぁおそらく、以前にも書いたけれど、1年半ほど前に病死した母親の存在が
でかかったんだなーと思います。
もうかれこれ6年ほど前になりますが、母が比較的若くして脳梗塞を患った後、特に因果関係もなく
ガンを発病して以来、少なくとも金銭面においてはずうっと母親の世話だけに費やしてきまして。
湯水のように費やした医療費はもちろん、何より当人の闘病の甲斐も空しく亡くなってしまいましたが、
この時にぼく自身が把握しきれてないほどの精神的なダメージを受けてたのかなーと、他人事のように
思い返しています。

転移と悪化を経て当人の心身が病痛に耐え切れなくなり、やむなく末期医療として麻薬的鎮痛による
ペインクリニックを繰り返すうちに意識が混濁し、まともなコミュニケーションも取れなくなっていく。
食事を摂っていたかと思ったら電池が切れたかのように動かなくなり、血便を漏らしていたり。
最期の方になると僕が見舞いに来ている事はもちろん、目の前に誰かがいるかどころか
人がいるかどうかからすでに認識できていないような状態だったのが印象的です。
クスリで人間ってあそこまで壊れるもんなんですねえ。あそこまで行くと死にかけているというか
死体が動いてるようにすら見えました。麻薬ダメ、ゼッタイ。

特に衝撃的だったのは、担当医から「そろそろ・・・」と言われた矢先、久々に気分が良さそうだった当人から
まるでちょっとイイアイティアを思いついたかのような調子で「殺してくれ」と言われた事。
そしてその数週間後に、病院のベッドですでに死体となっていた母を僕自身が発見した事だったと思います。
(今思い返せばどーして病院側の発見が遅れて見舞いに行った僕が見つけてんだよって感じですが)

それからしばらくの間仕事も休みをもらい、葬儀や後始末やらに色々と追われる中、ずいぶん荒れたものです。
酒に酔って家の中のものを破壊して回ったり、首に自殺用の紐をくくりつけて家の中で半日ボーっとしていた
事もありました。
もちろん、肉親を失った悲しみ、親の天寿を全うさせてやれなかった悔しさなどもありましたが、今なお続く
不可解な無気力のきっかけは、死んでいた時の母が不思議と満面の笑みを浮かべていた事のように思います。
その時から漠然と、今でははっきりとこう思うようになりました。

「頑張ったからって報われるとは限らない。
 むしろ、頑張らなくてよくなるのは楽なことじゃないか」

と。
そういう精神の堕落もあり、さらに末期の母の看病に時間と体力を費やす中、どうしても日々の仕事に
万全を期する事ができずにミスやトラブルを重ねて居づらくなった職場から逃げるように退職し、その後の
再起もままならずに頭を下げて再入社。それだけでは生活がままならず、アルバイトのダブルワークを
しているのが現在・・・という感じです。
あ、そうそうコッチには書かなかったけど10月くらいに尿管結石で入院しました。超痛かったです。

上記のように転身のための貯蓄をする事も叶わず、2つの職場からは「いまいち使えないオッサン」という
ラベリングをされ、行政から見放され(というかもう完全に敵ですわなあ)、
助け合うべき家族もなく(兄とは絶賛敵対中)、義理を果たすべき親族もなく、
心労を癒しあう恋人や友人なんていようはずもなく。うん、やっぱり詰んでるなあと。
ちなみに母の遺骨を埋めた菩提寺からも
「とっとと葬儀のお布施払え(相場ウン十万らしいです)この親不孝ものが」と言われております。

人間生きてさえいればなんとかなる、なんてよく言われますが、それはソイツ自身が何とかしてくれないと
損をしたり利益を上げられない・・・という利害相関が周りにあるから成立する温情であり、いまの僕のように
特にそういった衆人もおらず、むしろ猶予を持たない人間が、鬱屈した思いだけを日々増長させて
生きている事に意味が感じられない。僕が社会の中で生きている事に「チッ、使えねー」と思う人はいても
死ぬ事を良しとしない人は正直いないのが困りもの。

こういう自棄状態になると人を殺してみたくなったり、犯罪に手を染めてみたくなるケースもありますが、
僕は筋金入りのビビリなのでそんな気になる事もない。
死体は両親と親族でいやというほど見てきたし、物理的に小さい子とかをテゴメにするなら
紙の上に描くので十分。

ただ思うのは「じゃあどうすれば僕は『まとも』でいられたのかな?」という点。
たとえば母が余命を宣告された時、「本人の希望通りに」その場で殺してやればよかったか。
「医療費を出してもどうせ長生きできないなら」と死にかけの母を捨てて新生活でも始めればよかったか。
いずれも世間的に、人間的にもアウトでしょう。ていうか犯罪じゃねーか。
もしくは母の死後、死んだ魚のような目をして生きている間に精神科医にでも通ってリフレッシュすれば
よかったか。
いずれにせよ思うのは「何かを間違って、失敗して今の困窮があると断言できるのなら、その正解が知りたい」
ということです。誰も教えてくれないのはわかってますが。
自分が抗いようなく不幸であると酔いたいわけでもありません。むしろ出来るならば、自分がどこで
ミスを犯していたのかを知り、それを反省したいという思いしかなく。僕は職場などでよく
「人として最低限の事ができていない」「ものの考え方がおかしい」「やる気がない」「不真面目」
といったありがたいお説教を食らうほうですが、そのせいもあってか
「じゃあ『まとも』ってなんだよ」と思うこともあります。まぁ人によってはそう感じること自体が
他者への反感であり、それがお前の救いようのない部分だと思われるでしょうけど。

そんなわけで、遠からずショッボイ最期を迎えると思われる僕ですが、なるべく周囲の皆様には
要らんストレスや不快感を与えないようサクっと消えていく努力は惜しまない所存です。
生きているうちから盛大に爆死してるのに、死に様で人に迷惑をかけてはいけないからね。
富士の樹海とかで人知れず首を吊った人の気持ちがよくわかるこの頃です。
知ってるか? 警察が死体の身元割り出しに必死になるのは荼毘や葬儀とかの責任者を見つけ出して
ちゃんと金を払わせるためなのだぜ? 決して公共の平和や市井の安全のためが第一というわけではないのだぜ?
それだったらなるべく行方不明のまま社会から消えられるよう、あーゆー場所で命を捨てようという
気持ちのほうがずっと理解できようものです。

もちろん死ぬ時はちゃんと仕事辞めたり、払える限りの公共料金とか払って解約したりするけどね。
事情聴取とか入られたら先方に申し訳ないから、そこはきちっと無関係にしていかないと。
できうる限り思い出しうる限り、僕の情報にアクセスできる要素は整頓してからチョロっと姿を消していきますので。
パソコンの中のエロ画像とかは知りません。警察官がオナニーにでも使ってくれれば幸い。
まぁ自分のらくがき以外、まして法律に触れそうなものは全くないけどね。集めるのめんどくさかった。
税金は知りません。むしろ債務者が死んだ事で案件がひとつ消えて、公務員の仕事が楽になるぶん良い事だと思っていただきたい。

そんな中、最近の(上品とはいえない)趣味があります。それは
「街中で老人やホームレスっぽいご年輩を観察する事」です。本当に悪趣味だなおい。

思うんですけど、ああいう人たちは僕よりもずっと前から生きており、僕よりもずっと多くの事を悩みながら
それをしのいで来たからこそあの姿があるわけで。
ぶっ壊れたママチャリに山ほどのダンボールやアルミカンをぶらさげてヨタヨタ走ってる、
ゴミ集積場みたいな臭いのするようなジジイにも僕と同年代くらいの時が間違いなく存在し、その時に
多くの悩み苦しみを経てなお、現在も死を選ぶことなくヨタヨタと匂っていらっしゃる。
もしくは、もう齢80はキてるんじゃないのなんていう老夫婦が、仲睦まじく手なんかつないじゃって
ゆっくり歩道を渡り歩いている姿なんか見ていると「ああ、人生に勝ったんですねおめでとうございます」
みたいな、わけも分からず幸せな気分になる。負けたとも、ひがもうとさえも思わないです。
その存在自体が素晴らしい。
でもわっかりやすいヤンキー夫婦が子供連れてるのとか見ると心の底から負けた気分になりますね。
「あーこいつらもどうせ学生時代に人をイジメ殺したり少年法でもアウトみてーな事やってたんだろうに
 カワイイ子供がいてうらやましいねーやっぱ人生自分勝手に生きててナンボだったんだな」
てな具合で。ド偏見にもほどがありますね。
ちなみに僕わりと小さい子供が普通に好きです。子供が僕のこと大嫌いなのが哀しいけど。

死ぬ前には一度くらい、そういう人たちとちゃんとした話をしてみたい。
その人たちがどういう苦難を経て、それでも克己したり、なにかに救われて生きてきた点を理解したい。
その人たちに比べて自分が何をしくじり、何を疎かにし、その結果取り返しのつかない生態、取り返す気力も
湧かない薄弱さに堕落してしまったかを、しっかりと理解して死にたい。
僕の人生で心からやり遂げたいと思うのは、もうせいぜいこのくらいです。

しかし、死ぬとしたらやっぱり首吊りが一番なんでしょうかね。
とてもじゃないが手首とか超人オリンピック時代のテリーマンごっことかはイヤです。
痛いのとか死に損ないそうなのはいやだし、くたばる以上どうしても死体も残ってしまうわけですが、
その処理がめんどくさそうなのとかもダメですね。
よく言われるのは「首吊りは死体が弛緩しきってうんことかおしっこが垂れ流しになるから汚い」
という点ですが、それに供えてバッチリお腹をすかせた状態で決行するとは思うしなあ。

あと、「人間死んだ気になれば何でもできる」というのはやっぱり嘘だと思います。
実際にはむしろ逆で、楽しくてしょうがない事がある時期にこそ、その楽しさをエネルギーにして
やるべき事をきちっとこなす事が大事だったんだと思いますよ?死んだ気になってからでは遅すぎる。
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石川蔵人

Author:石川蔵人
基本的に何もやってません。消費者。

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